門限という文化について考える

私が高校生だった頃、地元ではそこそこ名の知れた進学校に通っていた。

「進学校」といっても東京や大阪のそれとは違う。

人口も少なければ、電車の本数も少ない田舎の、それなりに勉強ができる子が集まる学校だ。

制服は毎年ほぼ変わらず、購買で売っているパンの種類も覚えられる程度。校舎の廊下は冬になると吐く息が白くなり、夏は蝉の鳴き声が窓から入り込む。そういう環境で私は青春を送っていた。

私が育った環境は母子家庭で、しかもわりと堂々と「貧乏です」と言えるレベルで金がなかった。

貧乏としてかなりちゃんとしていたのだ。

母は朝から晩まで働きづめで、夕飯はスーパーの割引総菜や、私が適当に作った焼きそばで済ませることも多かった。

勉強机など買ってもらうことができず、ランドセルの上とかアイロン台の上とかで宿題をやっていたし、私と弟の貯金箱をひっくり返して10円玉をかき集めてなんとか牛乳が買える、そんなレベルでちゃんとした貧乏だった。

…いやすご笑

かわりといってはなんだが、そのぶん自由はあった。いや、正確に言えば「放置されていた」。

「門限」というものはなかったし、「誰とどこへ行くのか」という報告を求められたこともない。

夜遅くまで友達とファミレスでしゃべっていても、母は「おかえり」の一言で終わりだ。

子どもを信用していた、というより、監視する余裕がなかったのだと思う。

一方で、同じ学校には「ちゃんとした家庭」で育った子が多かった。

ここでいう「ちゃんとした」とは、両親がそろっていて、食卓には湯気の立つごはんが並び、夏休みには家族旅行に行き、勉強部屋には明かりが灯るような家庭のことだ。

彼らは、学校帰りに必ず家に直行し、部屋着に着替えて、テーブルに用意されたおやつを食べる。

週に数回は塾に通い、土日は習い事。

そして何より、彼らには「門限」があった。

門限を過ぎると心配される。電話がかかってくる。時には迎えに来られる。

それは、私にとっては異国の文化のようだった。

高校時代、私たちは彼らと同じ制服を着て、同じ授業を受けていたけれど、育ちの差は日常の端々に滲み出ていた。

たとえば放課後、駅前のマクドナルドで友達と話していても、門限組は時計を見て「やばい、もう帰らなきゃ」と慌てる。

「えー早くない?あとちょっと話そうよ」と言っても、「うち、門限6時なんだよね」と。

6時といえば、田舎の冬なら夕飯の準備が始まるころ。私はその時間、だいたいコンビニの雑誌コーナーにいた。

私の中で「6時に家にいなきゃいけない」という感覚は、まるでシンデレラの魔法みたいに現実離れしていた。

あるとき地元の大きな花火大会に高校の仲間と行ったときのこと。

彼らはフィナーレを見ることなく途中で帰宅したのだ。

門限があるから!

この門限組と放置組の見えない壁は大人になっても付きまとう。

先日、友人と話していて、その感覚の違いが今でも続いていると気づいた。

彼女は既婚者なのだが、結婚しているのに異性の友人と二人で会うことについて、昔の「門限家庭」の人たちは非常に心配するのだという。

「危なくないの?」

「旦那さん、嫌がらない?」

そういう質問が飛んでくるらしい。

彼らにとって、「男女が二人きり」というのは、ほぼイコールで「恋愛の入り口」なのだと思う。

だからこそ、

大人数で男女混合 → 安全。

マンツーマンで異性と会う → 危険。

そういう公式が、頭のどこかに常にある。

これが「きちんとした」育てられ方をした人たちの感覚らしい。

一方、私の感覚は違う。

男女が二人で会うことは、ただの会話や食事にすぎないこともあるし、いやらしい感情がゼロのことも普通にある。

むしろ健全な男女の友情関係を、普通に経験してきたと思っている。

私の家では、門限もなければ「異性と二人きりは危険」なんていう教えもなかったから、そういう行動をいちいち「恋愛の芽」として警戒する発想がないのだ。

もちろん、どちらの感覚が正しいとか間違っているとか、幸せなのかそうでないのか、とかいう話ではない。

ただ、大人になってから、この差は意外と大きいと感じる。

結婚相手や長く付き合う友人、パートナー的な人間関係では、やっぱり育った環境や価値観が近いほうが衝突は少ない。

もし私が、門限文化で育った人と結婚したら、きっとたびたび「なんでそんなことするの?」と言われていたと思う。

逆に、私の価値観から見れば、「なぜそんなに警戒するの?」となるだろう。

結局、人は自分の“普通”を基準にして世界を見てしまうのだ。

昔から「類は友を呼ぶ」というけれど、大人になってみると、これは意外と環境の話でもあるのだとわかる。

同じような家庭環境、同じような自由度、似たようなルールの中で育った人とは、感覚の地盤が近い。

だから付き合っていて楽だし、理解も早い。

「収まるところに収まる」というのは、そういうことなのだと思う。

門限があってもなくても、その人にとっての青春は確かにそこにあったはずだ。

でも、大人になったときにどんな行動や関係を「安全」と感じるか、その判断は育ちの影響を強く受ける。

高校時代のマクドナルドのテーブルで、ポテトを食べ終える前に帰っていった彼らと、夜中まで喋っていた私。

同じ時間を生きていても、その後の人生の感覚地図は、やっぱり少し違うままなのだ。

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