それなりコンプレックス

「それなり」という言葉はとても恐ろしい。少なくとも私にとってはとても恐ろしい。

「それなりのクオリティ」

「それなりに仕事ができる」

一見誉め言葉のように聞こえる。

けれどその実態は、突き抜けても抜きんでてもいないが、沈んでもいない、ただ水面にプカプカ浮かんでいるだけの状態だ。

そしてこのプカプカ浮いているだけの状態というのは、実は沼だ。

なかなか抜け出すことができない。

というか、自分では手ごたえを感じているとき、「これはなかなかじゃないか?」「はじめてにしては筋がいいんじゃなかろうか?」そんなことを思って鼻が高くなっているタイミングで、長老のようなベテランが現れて「うん、それなりにできているね」と言い放つ。

・・・なんともプライドの傷つくワードチョイスだ。

しかしこのそれなりゾーンはなかなか心地が良い。

「それなり」でプライドこそ傷つくものの、なんとなくできているつもりになれるからだ。

決してセンスが皆無というわけではないからだ。

そして私は昔からこのそれなりゾーンにいることが多かった。

思えば私のそれなりコンプレックスは小学校の学芸会が始まりだった。

小学校3年生の学芸会、劇をやった。それまで一度もやったことがないのに、猛烈にチャレンジしてみたくてピアノにチャレンジしたのだ。

しかもいきなり両手を使用し、かつペダルも踏まなければならない楽譜の曲に挑んだのだ。

それにもかかわらずできちゃったのだ。

これだけ書くと自分が器用であることの自慢話のように読み取れるが、当時の私の演奏を音楽経験者が聞けば笑うだろう。

おそらく譜面を正確に読み切れてはいないし、テンポや強弱も微妙だったはずだ。そう、おそらくあれは”それなり”のピアノごっこだった。

母親に誘われて始めたフラメンコも、大学の授業で取ったゴルフも、勉強も運動も、初めてなのに初回から及第点が取れる。

だが、及第点以上を取ることができないのだ。それ以上は伸びない。

多少の才能は認められるけれど、誰かが「すごい!天才だ!」なんて目を見張るような瞬間は訪れない。

だからこそ、「それなり」という言葉は静かに心をえぐる。

本気でやったことほどこの4文字が刺さる。

しかも器用貧乏なタイプの人はこの「それなり」ゾーン、プカプカゾーンに安住しがちなのだ。

努力すればもう一歩いけるかもしれないのに、現状に甘んじている。

気づいたときには初めに悔しい思いをした、それまで自分よりも後ろにいたはずの誰かに追い越されてしまっている。

だから器用貧乏には飽き性が多いのではないかと思う。

初めはなんとなくできている感、万能感に浸り、頃合いがくると追手に追いつかれ肩をたたかれる前に退散する。

だから彼らは何かを極めることはできないのだ。

器用であることというのは一見便利だが、満たされることはない。

そしてこれが私のコンプレックスの正体なのだ。

そして私はこうしてたまに自己との対話を繰り返し、自分と語り合う時間を設けてはいるが、おそらくこの自己分析も他者から見れば「それなり」の自己分析なのだろう。

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